清武会代表 西田幸夫

清武会代表 西田幸夫

極真空手 7段
大東流合気柔術師範 5段
琉球古武術師範 5段
沖縄剛柔流範士 9段

その他、中国拳法においては内家三拳(太極拳、形意拳、八卦掌)、白鶴拳を通じてその奥義を追求している。

極真空手創始者である大山倍達総裁の亡き後、国際空手道連盟極真会館の日本代表および世界代表を務める。1999年2月、極真空手清武会を発足。パワー重視の極真空手の稽古体系に伝統空手の技術、中国拳法、柔術を取り入れ、生涯に渡って武道を追求できる現在の清武会独自の稽古体系を構築。国内においては、清武会カップ、全日本ウェイト制空手道選手権大会、国際的には海外でのセミナー開催、空手母国日本においての国際交流セミナーの開催、空手留学生の受け入れ等、清武会の技術の普及に尽力し現在に至る。

著書
空手!極意化への道

空手! 極意化への道

「どうすれば、いつまでも武術として使えるのか――」

型で創る“勁力”を技化せよ! 極真空手家・西田幸夫の発見と実践! パワー重視の極真空手で初期から活躍してきた著者が、中国武術・大東流合気柔術・沖縄空手等の伝統武術から見出した「柔の術理」により、武術空手の真髄へ踏み込んだ! 剛の発端が柔の極まりであり、柔の発端が剛の極まりでもあるような、途切れず、かつ対立しない状態を技の中にも表現できたとき、清武会の考える武術の理想形となる!

パワー重視の極真空手で初期から活躍してきた著者が中国武術・大東流合気柔術・沖縄空手等の伝統武術から見出した「柔の術理」により、武術空手の真髄へ踏み込んだ!フルコンタクト空手、伝統空手はもちろん、あらゆる武術探求者必読の1冊。

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(5 / 5) 空手の意義
空手の動作のひとつひとつの意味が、中国拳法などからの動きのつながりと合致して、なぜこうなのかがわかり、空手の奥深さを感じられる力作でした。

(5 / 5) 参考になりました
現代の五輪書と言っても良いような本です。宮本武蔵は様々な武術と死闘を続けて極意を得ましたが、現代でそれをやったら犯罪ですから著者のような方法で見聞を広め、極意を得る方法は参考になりました。

(5 / 5) 年配の空手修行者の道しるべ
1980年代前半、高校生だった私は著者が支部長を務める極真会舘の城北支部ひばりが丘道場に通っていました。当時から、極真会舘のメニューに加えて、ご自身が学ばれている中国拳法や柔術の技の一辺を見せて頂いたり、一部稽古に取り入れており、武術の深淵を覗くようで私はその時間が毎度楽しみで仕方ありませんでした。高校生ながらに、この先生は極真の枠の中には収まらないスケールの大きな方だなと思うと同時に、この指導方法を許容している極真会舘も懐の深い組織だなと思っていました。この本を読み、大気拳との関わり等々、あの頃西田先生がどのような経緯で何を修行をなさっていたのかを垣間見ることが出来、大変有意義な読書体験でした。今は、極真を源流に持つ総合格闘技系の空手を修行していますが、基本稽古・移動稽古の際は、頭の中で西田先生の号令・気合いをイメージして気合いを入れています。この著書の中で西田先生は60をピークに持って行くことを提唱しており、大変勇気づけられました。

(5 / 5) よかった
フルコン、柔道経験者です。非常に勉強になりそういう意味でこの動きを行っていたのかと目からうろこでした。ただレベルが高いのでかなりの年数、考えて修行を積んだ人でないとすべてを理解するのは難しいのではと感じました。私には無理でした。西田先生から指導を受けている方が羨ましいです。この方は生涯一武道者という言葉がピッタリな方と思いました。最後に本書より感銘を受けた一文を記して最後にしたいと思います。常に座右の銘としてきたのは「他流に学び自流の不足を補う」であった。どの先生をお訪ねした時も白帯より始めさせていただいた。 私自身の成長がなければ指導者の資格はないものと思っている。

(5 / 5) 西田師範の実直な人柄が分かる本
極真空手の師範からは、多くの著書が出版されているが、虚飾に飾られた経歴や、意図的なライバル団体の悪評に終止しているものが多い。それらに対して、この本は、西田師範の長年に渡る修行経験が淡々と述べられ、極真空手だけではない、多くの武道修行の経験を体系的に記述した技術書である。極真空手は、空手の流派の中では、ちょっと特異な団体である。創始者の大山総裁は、空手の技術の優劣を、組手や試合での強弱でのみで評価したために空手の技術の質が、指導者ごとに全く異なっているのである。立ち方、構え方、攻撃技や防御方法のセオリーが、同じ極真会の所属でも、道場や指導する師範によって、統一性がない。また、大会試合での入賞順位が、極真会内部での技術的な絶対的評価軸になってからは、大会ルールの中で評価されない、または禁止されている空手本来の武術的技術が全く伝承されなくなり、次第に、武道としての技術体系の中で、欠落する部分が大きくなっていった。西田師範は、その過程で失われていった空手本来の技術を、中国拳法・古流武術、または極真空手の源流である沖縄剛柔流の技術に求め、自らの修行を通して解明していった。この本は、その解明のプロセスが述べられている。ひとつ提言がある。「清武会」空手は、もう「極真空手」を卒業してはいかがか。商売上の看板はあるとしても、稽古生たちは、その方が分かりやすいと思うのだが・・・。

(5 / 5) 誠実に武道を再建している姿に感銘を受けた
極真の空手家である西田幸夫師範(清武会)の武道への考えや修業の系譜が綴られている。写真も豊富で技術書であるが、内容が難しく理解できない部分も少なくなかった。ただ、極真の発展で失われていった武道本来の技術などを他の武道の良い部分を取り入れて研究されている点には感銘を受けた。

(4 / 5) 空手の先、武術の先を示してくれている本の一つだと思う。
競技を極めた先の技術。60歳まで強くなるには、他武道との比較、競技を終えた人、行き詰った人、参考になることがたくさんある良い本です。

(3 / 5) 難しい
申し訳ございませんが、私の経験・知識不足から理解出来ませんでした。『武道を極めた』超上級者や、『武道を極めよう』 とする上級者向けと感じましたので、中級者・初心者には敷居が高いかも知れません。内容的には、空手の基本や基礎と成っている中国拳法等の説明、それに関連する動作の写真が多数使われています。多分、空手と言う武道を更に研鑽するための一助(書籍)です。

(3 / 5) 難しそう。
西田師範は「60歳がピークの空手」を目指しているそうですが、この本を読んで身に付けるの難しそうだなと思いました。西田氏の道場へ通えれば何とか身に付けられる可能性はありますが、独学は無理だと思い諦めました。

DVD
極真空手清武會西田幸夫師範 空手、その本質の獲得 第1巻

極真空手清武會西田幸夫師範 空手、その本質の獲得 第1巻

空手本来の姿とは? 資質に左右されない武術の身技の追求! フルコンの雄・極真空手を軸に合気柔術・沖縄空手・中国拳法などを研究し、真の「強さ」を獲得するために独自の稽古体系を確立する極真空手清武会・西田幸夫師範。当DVDでは師範が実践する生涯武道としての空手を二巻に渡り丁寧に指導・解説していく。
■空手の基本 — 拳線を作る ○其の場稽古(軸…中段突き:三戦立ち、 合と開…中段外・内受け:三戦立ち) ○移動稽古(重心・力の伝達1…中段逆突き:前屈立ち、 重心・力の伝達2…中段逆突き:騎馬立ち)
■三戦 — 身体を剛化する ○三戦示演 ○三戦で何故力が出るのか ○統一体と締め(統一体とは何か、 上半身の締め、 下半身の締め、易筋と螺旋の円運動) ○運足 ○呼吸の仕方(呼吸の種類、 息吹…陽の呼吸、 逃れの呼吸…陰の呼吸)
■三戦の使い方 — 打ち・つぶし・崩し・投げの技法 ○三戦構え・基本…内受けからの打ち(内外) ○三戦構え・応用…受けかえ ○両手を掴まれた場合(剛:つぶし、 柔:投げ) ○両袖を掴まれた場合…点穴よりつぶし ○片手を掴まれた場合…三戦構えによる崩し ○統一体より出る力…勁力(拳による崩し、 開手による崩し) ○手合わせからのつぶし 足技

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極真空手清武會西田幸夫師範 空手、その本質の獲得 第2巻

極真空手清武會西田幸夫師範 空手、その本質の獲得 第2巻

フルコンの雄・極真空手を軸に合気柔術・沖縄空手・中国拳法などを研究し、真の「強さ」を獲得するために独自の稽古体系を確立する極真空手清武会・西田幸夫師範。 当DVDでは師範が実践する生涯武道としての空手を二巻に渡り丁寧に指導・解説していく。
■転掌示演
■転掌の本質(柔化の概念、転掌掛けとは、円運動の崩し—コロギの原理、誘いの原理)
■転掌の術理 — 力の効率的活用と円運動の技法 ○転掌掛け(1片手の崩し、2両手の崩し、3両手掴みより転掌投げ、4転掌掴みより崩し、5袖掴みより転掌投げ、6足への転掌掛け、7三戦への転掌掛け) ○弧拳受け・押さえ受け ○鯉の尻尾打ち
■カキエ — 意識と力の流れを読む ○小手鍛え・受けかえ ○転腕…大円の動き ○粘走…小円の動き ○押さえ受け…点で取る ○推手…柔を使う
■逆技 — 型の本質の技法化 ○撃砕大…肘上げと裏拳→鬼拳 ○征遠鎮…掛け受け→小手返し ○十八…手首の返し→小手詰 ○十八…掛けと転身→七里引き ○三十六…弧拳→弧拳投げ ○四向鎮…掌打→天地投げ ○壱百零八手…開手→指絡み ○連環

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(5 / 5) 優れた解説
DVDを観てわかることは限られる。制約を差し引いても、空手の本質に迫ろうとする心意気が分かる。見せるための型、試合の型ではない、本質を垣間見られる。おそらくこれは有段者か、それに近い人が観て、実地で稽古して、見直すためにあるものと思う。もちろん、早い時期から、ホンモノを観ておくだけでも意味があると思う。

第11回オープントーナメント全日本ウェイト制 空手道選手権大会

第11回オープントーナメント全日本ウェイト制 空手道選手権大会

厳選30試合!極真の魂・直接打撃が示す空手の可能性!!武道としての空手を追求し続ける極真空手清武会が主催する2010年11月7日平塚市総合体育館での「第11回オープントーナメント全日本ウェイト制空手道選手権大会」。当DVDでは今大会の注目カードを厳選収録! パワー・スピードばかりではなく武道としての空手を体現すべく研鑽を重ねた精鋭達の激闘は、空手愛好家のみならず全ての武道愛好家必見の内容となっている!!
■無差別級(体重無差別)一回戦
■中量級(65kg以上75kg未満)一・二回戦
■軽量級(65kg未満)二回戦
■中量級三回戦
■中量級準々決勝
■中量級準決勝
■無差別級三位決定戦
■決勝戦

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西田師範の空手講座
インタビュー形式で解りやすく清武会空手の神髄に迫ります。

空手は年齢に関係なく

空手は年齢に関係なく、本人の決意次第で楽しめ体力を増進できる武道です30代には30代、40代には40代の空手の稽古体系があってしかるべきだと思います。

現在、極真をやる年代層も広がりをみせつつあると思うのですが、その層をさらに厚くするために、どのように考えていますか?

これまでの極真の稽古体系は、どちらかといえば大会指向であった面があると思います。しかし、昭和35年に第一回の全日本大会が開催される以前、ちょうど我々が入門してやっていた頃は大会はなかったわけで、当時、極真会でやっている人で大会指向の人はゼロだったわけです。

ところが、大会が開催されるようになり、大会指向が強くなってきて、年代層でいえば10代後半から20代くらいの人間が門下生の年代層の中心になってきたように思います。その結果、体力的なレベルでいちばん優れている年代の人間が中心にやるということで、空手道でいえば、本来いなければいけない壮年レベル、熟年レベルの人たちを結果的に排除してしまった面がなきにしもあらずだったと思います。

しかし、大山総裁が亡くなった時点で、これまでの考え方や組織のあり方について前向きな見直しがされて、今はそういう年代層の居場所というか活躍の場を認めていこうという流れに変わってきているのは事実ですね。そのなかで私自身が考えているのは、これまで中心となっていた若い年代層を対象とした稽古、つまり、体力にまかせて、筋力レベル、心肺機能などを高めていって、その延長線上に大会があるといった稽古法ですよね。それはあってしかるべきものでしょう。

しかし、そういった若い層の稽古があるんだったら、30代以降の稽古もあってしかるべきなんです。当然、40代、50代、60代も同じで、その年代層にあった稽古があってしかるべきだと思います。統計学的にいえば、30代に運動をやらなかった人は、40代、50代に体力レベルでものすごく落ちるということがわかっているわけです。

これは、オリンピック選手を追跡調査してわかったことなんですが、20代で競技生活を完全にやめてしまったオリンピックの選手と、30代まで何もやらずに30代になってから同じ競技を始めた素人の人とをくらべてみると、30代後半、あるいは40代で見たときには素人の人の方が体力レベルではオリンピック選手より優れているという統計があるんですね。

ということは、人間の体力というのは30代に何をやったかで40代の体力が決まってしまうということです。それほど、30代の稽古は大事だし、また、それでいえば、30代なくして40代はないし、40代なくして50代もないわけです。だから、10代、20代に空手をガンガンやって、現役選手ではもうやれないからといって引退しちゃう、空手そのものから離れてしまうと、30代後半、40代には何もやっていない人と同じ体力レベルになる可能性があるわけです。あるいは、30代から空手を始めた人が体力的には追いぬいてしまうこともあるわけですね。そのことが、人間の身体を考えるときに、あるいは今の極真の空手の稽古体系を考えるときにいちばん大事かなと思うんです。

あるとき、私は大山総裁の大阪・奈良の講演会にお供をしたことがあるんですが、そのとき「総裁が一番体力的に自信がおありになったのはいつ頃ですか」と質問したことがあります。そのとき「34~35歳のときにいちばん私は自信があったよ」と答えられたのを覚えています。私自身の経験でも37歳くらいまでは体力的に落ちたという実感はありませんでした。

仮に、総裁の言葉の通り、35歳あたりを体力のピークと考えるなら、体力的な登りと下りでいえば下り坂の10年後の45歳と上り坂の10年前の25歳では同じということになります。もちろん、一概にそういうことは言えませんが、そう考えれば、体力というものは40代だからといって否定することもないわけです。だから、先程も言ったように30代の稽古があってしかるべきだし、40代の稽古があったしかるべきなんです。

40歳代になっても、体力的に悲観することはないわけですね。何だ、今は20歳代に落ちただけなんだと。いずれにしても、30歳代以降に何をしたかが人生の体力とか健康度合いに大きく影響してくるということですね。

そうです。で、50代、60代になれば、それまで何もやってこなかった人にとっては体力的に非常におとろえていきますね。やってきた人とやってこなかった人では、体力的な部分はもちろん、そこから出てくるエネルギー、さらには人間的な魅力という部分でも違ってくるんじゃないかと思いますね。身体を動かすというのは、まさに人間も動物ですから大事な要素です。動物というのは動かなくては本来の機能が発揮できないようになっていますからね。空手は学ぶ要素が多い武道、自分のいちばん興味があるところから始めればいい。

極真というと、そのイメージから30代、40代の人は二の足を踏むところがまだないとはいえませんね。本当は、そういう年代層にもっともっと極真をやってもらいたいですね。

目的が30代、40代になるとはっきりしてくると思うんですよ。当然、大会指向じゃないし、体力を整えたい、つけたいという部分が中心になってきます。もうひとつは成人病などの病気に対する予防的な意味、健康管理のためにやりたいという人が多いんじゃないかと思います。今は予防医学というのがいちばん大事なんで、病気になってから治療してというのではなくて、病気にならないような身体をつくるということですね。

その意味では、空手には呼吸法あり、身体を練る方法あり、丹田をつくる方法あり、そして且つ体力づくりの方法ありと… しかも、それを習得するのに、基本があって、移動があって、型があって、投げや逆技があって、さらにその延長線上に自由組手がある。学ぶ要素がいっぱいあるわけですよね。たとえば、型がおもしろいとか、護身とか術理的な技術がおもしろいとか、スパーリングがおもしろいとか。

ですから、自分にとって一番とっつきやすいものから始めることができるわけです。私は、それぞれの目的で空手を見ていただいて、自分がいちばん興味があるところから入っていっていいと思いますよ。多分、今の私どもの組織でいえば、そういう許容範囲はあると思います。たとえば、腕立て100回できなければ入門するなという理不尽な言い方は誰もしないと思います。やはり、空手をやることによって、体力が増していく喜びや、武道でなければ学べない術理とか知識を身体で覚え込む楽しみ、そういったものがいくつになっても得られるのが空手ではないかと思います。

そういう楽しみが実感できるのなら、年齢がいってからでも取り組めますよね。

うちの道場の傾向でいえば、いま壮年部は非常に増えています。審査をやっても、30代半ばの方が多くなっていますね。空手は若い人だけのものではないんだということをずっと言いつづけてきて、やっとそのあたりの部分が定着してきた感がありますね。あとは、学ぶことのおもしろさというか、武道だけしかもっていない術理というのはありますよね。そういう学ぶおもしろさを空手のなかに見いだしてもらいたいですね。

「ベンハー」という映画がありましたが、主役のチャールトン・ヘストンは確かその映画に出演したとき50歳代だったと思います。この映画では、裸に近いシーンがたくさんあったので、彼は筋力トレーニングをやり、あれだけの美しい身体をつくって出演したわけです。ということは、50代であっても、彼の場合は映画の撮影のためのものですから、多分数カ月とかの短期間だったと思いますが、そのようなトレーニングをやることによって身体というのは確実に変わってくるということです。

それは空手の稽古でも同じで、50歳だから遅いということはないわけで、要はいつやるか。年齢に関係なく、本人の決意しだいで楽しめ、体力を増進できる武道が空手だと思います。

精神と肉体の一如感を体得できるまで

精神と肉体の一如感を体得できるまで自らを掘りさげていけるのが武道、稽古で達成感が得られるのは本来、人間の本質がそんな感触を求めているから。

前回は、空手は年齢に関係がなく、本人の決意次第で楽しめる武道だというお話でしたが、やはり、体力にあまり自信のない人が極真の門をたたくのはかなり勇気のいることではないか。特に壮年といわれる年齢にある人にとっては…。

確かに、そう思うかもしれませんね。しかし、たとえば、腕立て伏せが10回しかできないのなら、できないで、そこから始めればいいわけです。一カ月後に15回、2カ月後に20回をめざしたらいいと思うんですよ。これは、私の道場で実際にあった例なんですが、小学校2年生の生徒がいまして、入門当初は腕立てが10回もできなかったんです。5~6回でつぶれちゃう。で、前回よりも必ず1回多く、前が5回ならば次は6回やろう。そんな指導をしていくと、半年後には100回できるようになったんですね。

もちろん子供と壮年の場合はホルモンの出方が違うので、子供のように身体能力が急上昇することはないかも知れません。しかし、継続していけば、間違いなく体力はついてくるし、心肺機能もあがってきますよ。それに、稽古が終わったあとの達成感は何とも言えない爽快さがあります。稽古にいくまでは、やはり、多少の葛藤(ストレス)があるわけです。夏の暑いときに稽古してキツイなとか。

でも、それを乗り越えて、稽古が終わったときの達成感や満足感には、何ものにもかえられないものがありますね。それは、人間の本質がそういった達成感を求めている、精神的に広がるものを求めているからだといえるでしょうね。これは、生命というものがストレスに対して克服、成長、進化という過程を持っている。これを恒常性と言います。

例えば、夏の暑いときクーラーをいれて稽古をする。あるいはクーラーの部屋で何もしない場合、ストレスはないわけですが、体温を調節する機能は低下します。つまりは、ストレスを避けることが大切ではなく、ストレスを克服することが生命の力を高めることになるのです。「トレーニング」と「稽古」の概念の違いは、肉体レベルか精神レベルかの違いだと思います。

ところで、欧米スポーツでいう「トレーニング」と空手でいう「稽古」の概念は、どこか違うのではないかという気がするんですが。

厳密にどう違うというのは難しいところですが、トレーニングレベルというのは肉体が主体になっているといえるかもしれませんね。肉体を主にして見えるものや記録といった見える形のものを追いつづけていくというのがトレーニングレベルだと思いますね。だから、「トレーニング」的な概念でいえば、いつも結果を出していかなければならないところがあるのかなと思います。

その一方で、稽古というのは、外側に広がっていくもの、つまり肉体的なものと、内側に入ってくる精神的なものも含めての鍛練ではないかと思います。敢えて言えば、稽古は肉体の鍛練と精神の鍛練のシンクロと言えるかもしれません。トレーニングと稽古でいえば、それは20代までの練習と30代以降の練習の違いでもあるのかなと思います。一般的に、20代というのは、精神性よりも、肉体的な部分での記録とか、見えるものを追っていきますよね。ところが、実際の強さというのは30代、40代になってわかるものなんです。

肉体レベルの強さが本当の強さじゃないということが歳をとってくるほどにわかってくるわけです。若いときは肉体さえ鍛えれば強くなれるんだと思っていたものが、歳を増すとともに「待てよ」というところがあって、肉体的な部分を引っ張っているのは精神的な部分もあるなってところに気づく、そこから、精神性のようなものを求めていく。そうすると、非常に厚みというか幅がでてきます。

そういったことに気づくのが30代、あるいはそれ以降かなと思うわけです。いずれにしても、肉体と精神の関係は「一如(いちにょ)」ではないかと、あるいは「不二(ふに)」という言い方をしてもいいと思います。肉体と精神というのは別々ではない。しかし、一つでもない。一つの如しです。それは武道でいう心身の統一という過程を経て「剣禅一如」といった境地が見えてくる。こうした一如感が分かってくる年代になると「待てよ」という気付きが出てくるわけです。精神的なものを含めた上での心身の鍛練、それが「稽古」が「トレーニング」という概念ではとらえきれない部分ではないでしょうか。

そこに気づいたときから本当の稽古が始まるのかなと思います。そうなると、自分の求めていく世界が広がるし、稽古においては、あせる必要もない。半年一年で結果をすぐに出す必要もないということがわかってくるわけです。壮年部の方々が最近多く入門されていますが、彼らはバブルとその崩壊という点で物質的価値観の天国と地獄を見てきたわけで、その延長線上に精神的な危機感を持ったと思います。そして、武道性の中にそれを癒してくれるものを求めてきていると思います。ですから、トレーニングではなく稽古なんでしょうね。

宇宙と顕在意識、潜在意識が結びついたときに肉体と精神の一如感を味わえる肉体と精神の一如感覚とはどういうものなのでしょう。

感覚的にいうと、顕在意識はたとえていえば海水に浮く氷山の一角にしかすぎません。我々の意識の9割は海水のなかに入っているわけです。その海水のなかに入っている9割の部分が潜在意識なんですが、人間はその部分については、なかなか掘り起こそうとしません。氷山の大部分が海水の中に沈んでいることがわかっていないからなんですね。我々は非常に狭い範囲の中での情報の選択を日常しています。海水よりも突き出た9分の1の顕在意識(知覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚などの五感)で切り取られた情報に対してのみ感覚器官として働き、それを情報として取り入れています。

この五感のレベルを下げる作業、言い替えれば潜在的力を掘り起こす作業が型の稽古です。型を繰り返し行う中で五感を鈍化させるレベル(動禅)まで行き着くと潜在的力が発揚してくる。この海水が我々を創った根本的なものという意味で宇宙であり、海水自体の意識と自分の潜在意識、顕在意識が結びついたときに一如感がでてくるわけです。そこまで自分を掘り下げていけるのが武道かなという気がしますね。

ですから、型のときにもお話しましたように型を繰り返していくと、型の創始者の意識レベルに飛べるんだということです。型稽古は、部分から全体への関連付けの作業ではないでしょうか。

日本の空手指導者たちが、そういった深く掘り下げた部分、一如の部分を世界に見せてあげることができれば、日本は競技レベルとは別次元でいつまでも空手母国として尊敬されるのではないかと思いますね。

そうだと思います。そのためにも、その部分を見せることができる指導者が必要であり、これから日本がイニシャティブをとるべき部分はそのあたりにあると思います。

欧米も、そのあたりに気づき始めているのではないでしょうか。

まさに、その通りです。そういう意味で、今は我々にとっていい時期なんですよね。あらゆる面で価値観がくずれて、欧米では東洋の文化に目がむきはじめたときですからね。今ここで、武道の精神性、あるいは東洋の精神性を見せられる、表現できる指導者がいるとしたら、これまで空手にあまり関心を示さなかった人たちも、振り向かせることができるんじゃないかと。特に、壮年部の人は人生経験もあるし、そのなかで自分たちは何を求めているかがわかってる人たちですからね。もっと幅広い年齢の人が極真に集い、層が厚くなるんじゃないかと思っています。

見えない部分をも鍛練するのが武道

目に見える部分だけでなく見えない部分をも鍛練するのが武道。道を極めた人は「肚」ができている全ての動作における基本姿勢は「上虚下実」、丹田に重心を置くこと。

丹田の概念についてお聞きしたいのですが。

人間の体において臍(へそ)を中心にして、それより上を上部、下を下部と決めるとちょうど五分五分のバランスになるんですが、丹田というのは、その位置を若干下げたところに定められたものです。実際には手術をしても何も存在しないのですが、逆にその部分を意識することによって設定できるといったものなのです。

もともと丹田は上丹田・中丹田・下丹田の3種類があります。上が額(印堂)、中が胸(壇中)の中心、そして下丹田がいわゆる気海丹田といわれるところで、へその下、臍下丹田です。人間の動きを考えたときに、上虚下実、上半身が虚になり、下半身が実になった状態が一番優れたパフォ-マンスができる状態なんですが、丹田を自分の中に設定して重心を下げることによって、この上虚下実のかたちがとれるのです。

これは空手においても突きや受けなど最も自然な構えがとれる状態であり、空手以外でもバットスイングしかり、マラソンもそう、また絵を描くことやしょを書くことについても、全てのパフォ-マンスにおいて動作がスム-ズに行われる基本中の基本です。

丹田というものを意識する方法をお聞きしたいのですが。

いろいろな方法が考えられますが、まず呼吸法と姿勢ですね。丹田に関わる呼吸法としては、腹式呼吸と丹田呼吸(逆腹式呼吸)があります。腹式呼吸というのは息を吸った時に腹圧をかけて、息を吐いたときに腹圧を解くわけです。丹田呼吸というのはその逆で、息を吐いたときに腹圧をかけて吸った時に腹圧を虚にします。

どちらの方法も腹を意識しながら呼吸することで、丹田のトレ-ニングになります。これは瞑想の中でも、椅子に腰掛けていても、あるいは横になって寝ている時でも、いつでもいい。次に姿勢ですが、人間の体は脱力して体軸を作る姿勢をとると、丹田に腹圧がかかるようにできています。空手の型においては「騎馬立ち」や「後屈立ち」で丹田を意識し、腹圧をかけるような練習をすることは有効だと思います。「騎馬立ち」「後屈立ち」というのは自然に腹に力が入らないと決まらないですから。そして最後は「三戦立ち」と息吹きによる身体(呼吸と体)の統一です。

架空のものである丹田の概念といったものは外国人にも伝わりますか。

なかなか分かってもらえないと思います。しかし、丹田というのは「意識の場」である、また自分の意識下に置くことで力が出るところだという説明で多少は分かってもらえると思います。さらに、重心の中心に置くところだということ。たとえば、「あがる」という状態ですが、これは重心が肩にいってしまう状態のことで、先ほどの言葉でいえば「上実下虚」になることです。

同時に「気」というものも意識といっしょに移動してしまうものなので、「気」もあがってしまい、肩に力が入り、腹の力が抜ける。こうなると力が出ないわけです。野球でバッターがスウィングしたときに、バットに球が当たったとしても、上半身に重心が移動し、気があがってしまっていたら、遠くへは伸びていかない。下半身が「実」で上半身に柔らかさある状態だと突きなどは非常に有効ですし、ホームランボールも打てます。

また、日本人、東洋人は丹田というものに意識を置き、武道という技術を使うことによって肉体的なハンディを克服し、大きな体の人間と闘う方法論を作り上げたのです。「なぜ帯を締めるのか。」ズボンを止めているのはベルトですが、へその上で締めます。それは、ズボンがずり落ちない様にするためのものであって、道着の帯は着衣の乱れを防ぐことのほかに丹田というところを締め込むという意味があるわけです。そうすることによって、「上虚下実」の状態を作り出すわけです。だから相撲取りが「まわし」を締め込むのはへその上ではないのです。

現代社会では「肚」の概念が失われつつありますが、日本の褌(ふんどし)というのも意味があるものだったのですね。

そうです。だから「褌を締め直す」というのは「気を入れ直す」ということになるわけです。「肚に力をいれる」というのは腹節群に力を入れることではなく、腹圧をかけることです。「肚」というものの意識が古来日本にはたくさんあったと思うんです。例えば、昔は怒ったときは「腹を立てる」といったのですが、今の人は「頭にくる」といいます。

今の人間は脳で考えているからそういう表現になる。それに対して昔の人は肚で考えている。それはなぜかというと、今の人間は左脳が発達しているからなんです。昔は右脳も発達していた。感性のレベルが非常に高かったです。こおろぎの鳴き声を聞いて秋を感じるとか、風鈴の音を聞いて涼感を得るといったことは右脳で感じるわけですが、そういった右脳のレベルがあがっていくと「肚」と同じところつまり丹田につながっていきます。

脳を東京の本社とすると、丹田もまた地方の本社なんです、支社ではなく。今風の言い方をすれば脳から出る物質、例えばアドレナリンとかそういったものが全部肚からも出ている。脳がある状態になったときには肚も同じ状態になるということです。それをフィードバックさせて考えると肚がそういう状態になれば脳も同じような状態になるということです。

つまり肚を鍛え作り上げることによって脳を冷静に保つだとか分別をつけるというように右脳のレベルを向上させるんです。そうやって右脳のレベルが上がっていくと必然的に左脳のレベルは下がります。そうなると左脳というのはデジタルのほうですので物事に対して損得だけで動かない人間になっていきます。余談ですが、明治以降から戦後にかけての日本の教育は左脳を中心に行われてきました。

OX(マルバツ)や偏差値、学歴社会といったものは、そういった左脳中心型の損得勘定によって生み出されたものなんです。そういった形で日本がなされてきたことによって、日本人のなかにあった「肚文化」といったものが現在では最も稀有な状態なのではないでしょうか。座るという文化も今は廃れてきています。昔は座ることで肚に腹圧がかかってたんですが、西洋文化の導入でいす、ベッドが普及しましたから。

また戦後は、武道的なことが非常に阻害された時期があったことも一因かもしれません。まぁ、ある意味では現在は武道ブームともいえますが・・・武道ブームというよりは格闘技ブームというのが本当のところではないでしょうか。

そうですね。ああいった興行的な世界には「道」といったものはありませんよね。そして感性の問題で言うと肚を忘れれば当然右脳の作用が衰える。その結果現在の日本人の感性は非常に貧弱なものになってしまっているということですね。

そうだと思います。五感でしか動けなくなってしまっている。

外国の人はどうなんでしょうか。

西欧の人はまず思想的にデカルトの二元論が合って心と体とを分離させて考えていますから、これは極めて左脳的な考え方なんです。確かに理論的にはそのほうがわかりやすいわけですが、それだと何か置き忘れたものが、見落としてしまったものがあるんじゃないかとそんな気がするんです。逆に日本にはそのことをよしとして今までの文化思想を捨てて、教育や文化の中に取り入れて行ったんですが。

肉体レベルを超えたあと精神的な部分で空手をどうとらえていくか、極真空手をするということは、ある意味では肚を鍛え直すということにつながってくるわけですね。

最終的にそこまで行くことが、武道の目的かもしれないですね。肚に限らず、やはりそう行った精神世界と言ったものを追い続けていくというのは大事なことだと思います。常に目に見える部分だけではなく、目に見えない部分においても目標を追っていくことです。つまり、見えないものであってもその存在が信じられるものというものは確かにあるわけですよね。

例えば心・精神という物がそうであると,こういう風に言うと理解して頂ける。具体的に示さないとわかってもらえない部分と言うのがありますが,肉体レベルの鍛練が武道なのではなく、精神的な部分、見えない部分の鍛練方法も武道の中にはあるということなんです。

「上虚下実」の形は実戦で使うことが出来てこそ本物。自分で納得できるまで模索し続ける事が大事で、このし続けるというのが「道」になるわけですね。これがいわゆる「ソフト」の部分になるわけですね。

「ハード」を組手と考えれば、そういうことになります。ですから,今後もある意味で現役選手に向けてのものだけでなく、40代,50代の指導者に向けてどういう教育をしていって,日本の武道文化を伝えていくのかというのは、大きな課題になってくると思います。ただ正直なところ,どんな形であっても,ある程度完成された人というのは、必ず肚が出来ているものなんです。

自分がそのことを意識しているしていないは別として、マラソンランナ-もトップアスリートであればだいたい重心の位置が丹田にいくんですよ。西洋のスポーツにはそういう概念が無いわけですから、当然丹田という意識ハ本人には無いわけですが、安定感のある動きをしている人は、重心がきちんと丹田に落ちているんです。

例えばバレリーナにしたって安心して安心して見ていられるようなダンサーは、やはり丹田に重心がありますし、空手の型にしても同じ事が言える訳です。何かハラハラして見てしまう人がいますが、あれが「上実」の姿勢なんです。逆にうまいなと思えるような人は、「下実」になっているんです。見ている側にもなんとなくそういったことが伝わってくるので、安心して見ていられるわけです。つまり重心が落ちるべきところに落ちているんです。

武道におけるソフトの部分とは一体何なんだろうということが考えられてくると思いますが、丹田も含めたことも含めて、一つ一つ肉体レベルを越えて指導していくということも日本武道ソフト輸出のかたちのひとつなんでしょうね。

その通りだと思います。ただ本質的にはそれを今度は技に使っていかなければならないわけです。そこまでのことが出来て、それを空手の動きに変えてしまったら肩に力が入ってしまったという時点で駄目なんです。動きに変えたときにもそれが継続されるというふうならなければいけないのです。

例えばすり足がそうですが、普通日常生活においては、踵を上げて蹴ってつま先で蹴り終わりますよね。あれをやるから肩が上下するんです。頭の位置も変わってしまうから丹田は安定しない。だから摺り足という特殊な歩行を作ることによって、丹田の位置をいつでも安定させる訓練をしているわけです。

では、組手における安定感というのもやはり丹田からきているわけですか。

もちろんそうです。丹田は体の中にあるものですから、極端な話跳び上がっても重心の位置は上に上がってはいけないんです。重心の位置が上に上がらなければ攻撃も受けも安定してくるわけです。

個々の人生との関わりを模索する事で初めて空手の奥深さがわかってきます。今まで極真空手はこういった部分があまり語られていなかったのではないのかなという気がします。個人レベルに納まっていて、そこまで組織的に突っ込んで模索しようということはあまり見えていなかったように感じるんですが。

まあ、元来そういったことは組織でやることではないかも知れませんね。極端な話、丹田が出来てだからどうなんだといっても、外面的には何も変わらないわけですから。ただ逆に、そういうことの価値を認める事が出来るか出来ないかという事ですよね。今まで極真会としては、即戦力に結びつくような走り込みとかウエイトトレーニングとかをやったほうがいいという考え方が強かったと思います。

ある面ではこのレベルまでこれたとも言えるんですが、第一回の全日本大会からももう25年以上経ちました。そうなると25年前に出てきた人間、20年前に出てきた人間は試合レベルの空手はもう終わっているはずなんです。そうすると、そういう人は新しい何か自分の生き方といったものを模索していたんじゃないかと思うんですね。それは他の人に言う必要が無かったから言わなかっただけで、個々でやってきていると思うんですが。

ただそう言った模索している人に、模索の機会を与えてあげられるだとか、そういう人達が集まってくる団体がいいですね。そういうことはつきつめれば個人レベルなんでしょうが、そのことを考えている人がたくさんいればいるほど、いい意味で、今度は組織としてまたアピールできるものが生まれるんじゃないでしょうか。

そうですね。出来あがったもの、既成のものというのは無いと思うんですよ。今、各々の中で出来上がりつつある事だと思うんですよ。それを「これですよ」と完成した形で見せることは難しい。それは各々の形でいいから、やっぱりそれを海外に対しても発信していってもいい時期だと思うんですよ。

海外に対してもいろんな人の考え方なり、そういう空手の奥の深さというものを逆にわかってもらえればいいわけですよね。そこから先に関して言えば、もうそれは個人レベルに還っていくわけですから。

試合・組手のように具体的に見えるものじゃなくて、その姿勢ということなので、そういった見えない部分の価値を教えたり位置付けたりする事は難しいですね。先程も言ったように、日本の教育にしたところでその辺は見えてこなかったわけですから、そういった教育を受けていない人間に教えるのは外国人に教えるのと同じ位難しいわけです。ただ、日本人の場合江戸時代までの歴史的な伝統なり基盤がありますから、『なんとなく』というレベルでわかっているんですよね。ですので、その『なんとなく』というのを誘発していければと思っています。

愛情というエネルギーは与えられるだけでなく与えることにより生まれる

肉体レベルの修行から入り精神レベルへと高めていく

21世紀は見えない部分、感性や精神性の豊かさに価値が出てくるということですが。

見えないものにはエネルギー的なものがありますよね。エネルギーは見えないけれどもそれが形に表れたものが物質であるといえると思うんです。エネルギーは与えられるものであるとともに、それとは別の側面もある。与えることによって作り出すことが出来るものでもあるわけです。

これは、あくまでも仮定として考えて欲しいのですが、例えばある母子家庭があって、母親が働き出ていて家に居ない。それが原因で、その子供の心の中に愛情に対する飢えが生じ、心の中が空っぽになってしまったとします。そして、それが登校拒否や非行につながってしまったとします。もし母親が十分に愛情を注いでいたとしたら、そんなことは無かったかもしれません。

そのとき、子犬を飼って与えたとします。子供はそれまで与えられる愛情に飢えていたわけですが、今度は自分が子犬に愛情を与えることによって、愛情というエネルギーを自ら作り出していくわけです。それによって空になった心の中が満たされてくるわけです。つまり、愛情というエネルギーは、与えられるだけでなく、与えることによっても作られるということです。ですから、精神性の豊かさを考えるとき、そういった部分を見逃してはならないと思います。

そのことと極真はどういうふうに関係づけられるのですか。

極真をやると、まず肉体レベルが皆非常に高まってきます。肉体的な部分というのは非常にわかりやすいし、入りやすい。しかし、そこにとどまらずに、最終的には精神レベルまで持っていく。とことんやって、肉体レベルの限界を感じた後に精神性の持つ本質的な部分が見えてくる。心主体従という考え方もそのひとつでしょう。

そこまで自らを動機づけ、道を探しつづける。そのための修行のひとつが極真空手ではないかと思っています。精神性の豊かさでいえば、例えば我々の大会でも学生ボランティアのかたに協力していただいていますよね。あの方たちというのは、今言った意味で、自分の許容範囲の中から与えつづけることによって自らの精神世界をどんどん広げていっている人達といえます。

やはり我々も、道場生の精神世界を広げてあげるために、肉体レベルと精神レベルをきちんと位置付けながら教育をしていかなければと思っています。そういう意味では、現在はまだ不充分かもしれませんが、いずれにしても将来的にはそういった方向性に持っていきたいと思います。

西田師範は「気」の世界にもずいぶん関心があるようですが。

私自身は20年前に気功をはじめたのですがそのころの日本人には「気」という概念そのものが少なかったのです。話をしても誰も聞いてくれませんでした。太極拳をやっていると「ずいぶんゆっくりした踊りですね。」という感じでした。ところが現在は、「気」ついて話をしたら、ほとんどの人が理解をしてくれますし、太極拳をやってもわかってくれます。そのことを見ても今は「気」、言葉を変えて言えばエネルギー的なもの、目に見えない世界に対する見方が変わってきたと思うんです。

なぜ、その当時、誰もが無関心だった「気」の世界に興味を持ったのですか。

当時の私といえば、極真の選手時代でした。しかし、肉体的にはあまり恵まれているほうではありませんでしたので、自分の肉体レベルにある種の限界を感じていました。そこで、そのレベルを突き破るようなものが欲しかった。そういうことだと思います。確かに、昔から目に見えない世界に関心を持っていたということはありますけど。

極真空手におけるハード(肉体レベル、あるいは競技的な強さ)とソフト(武道の持つ精神性)という関係を考えたときに、ハードの部分で言うと世界と差が無くなりつつあります。そこで、次はソフトの部分で世界をある程度引っ張っていかなくてはならない状況にきている。ではどういう形でそのソフトの部分を育成していくか。それが我々の大きなテーマになると思うんですが、いかがでしょうか。

本来、日本人というのは、精神性の高い文化の中で生きてきたわけです。「気」の概念のようなものもありました。例えば、八百万(やおろず)の神といういい方があります。その意味するところは、すべてのものに、例えば木や森や山に「気」とかエネルギー的なものが存在しているということです。それを日本人は体感していたわけです。

そういう力で我々は生かされているんだと。「お陰様」という言葉はそこから生まれた言葉だと思うんです。こうしたエネルギー的なものを疎かにしたときに「気が枯れる」わけです。だからそんな状態が「汚(けが)れる」ということだと思うんです。

ところが、日本人の文化の中に連綿とあったこうした考え方とか文化に、明治以降に突如としてそれを否定した文化が入ってきたわけです。その時点から日本にもともとあった精神性の文化の否定のようなものが始まった。それからというもの百年間、日本では別な文化が育ってきたと言えます。

前にも言ったように、大きい意味で二十一世紀というのは新しい始まりかなという気がします。というのも、こうした文化が行き詰まったところで、振り子が振り切った時にもとに戻るような現象といいますか。元に戻るといっても、昔に戻るわけではなくて、あるところから戻るわけで、非常に速い勢いで精神性時代の文化というものは浸透していくのではないか。そういう気がしてなりません。

では、我々も精神性でリーダーシップのとれるような形にしていかなくてはならないということですね。たとえば、ハードの部分で世界チャンピオンを出している国だから尊敬されるのではなく、誰が世界チャンピオンになろうと、それとは別の価値軸でやはり空手の母国は日本だといわれるだけの尊敬の対象になる精神性の世界、それをこれから日本が発信していかなくてはならない。

それが一番大事だと思います。いきつくところは東洋文化というか、東洋思想の世界に向けての発信だと思います。

東洋がずっとメッセージしてきたものが科学的に解明される時代になってきた

21世紀は「感動」がキーワードになる時代

来るべき21世紀はどんな時代になると思いますか。

私は、偏差値重視の教育、価値観を越えて、21世紀はどう感動させるかの時代ではないかと思います。ワールドカップの時も、ご父兄に対し「皆さんの子供たちは空手を習っているわけですから、いい試合を見れば絶対感動します。でも、幕張メッセまでは、子供たちは1人では行かないでしょう。小遣いもそう多くは無いはずです。ですから、ご父兄の方が連れていってくれるかどうかが大事なことなのでどうか連れていって下さい。

損得といった部分で動くのではなく、感動というものをエネルギーにして動けるような、そういうお子さんになって欲しいので是非いっしょにワールドカップを見に行ってください。」と練習試合や審査会でお願いしたんです。それは間違っていませんでした。ワールドカップを見に行ってみんな感動したと言ってくれました。

21世紀は感動がキーワードになる?

やはり人間が動く上で大事なのは感動かなと。もちろん、私自身も感動したいわけです。先日、私の隣の町に海外からバレエの団体が来たんです。白鳥の湖の公演だったんですが、その三幕目というのは、確か片足のスピンをかけたターンを32回やるんです。有名な白鳥の湖の見せ場ですね。

それができないとプリマドンナではないわけで、私の家内に「これは素晴らしい体験が出来るから絶対見ろ。」といったんです。そのプリマドンナの年齢が確か60歳代後半だったと思います。20台のプリマ32回スピンするんだったらなんとも思わないかもしれません。でも、60台の人間が、そういう身体意識を持ち、自分の体力レベルを維持するということは大変なことです。そこに感動があるわけです。

感動は右脳てきな部分といえますが書店などに行くと脳内革命とか「気」とか、臨死体験とか、見えない部分についてかかれた本が最近目立つようになってきました。

やっと時代がそのレベルにきたという感じです。それにここ十年、脳の科学というのが非常に発達してきたという背景があると思うんです。そのことによって、欧米人が東洋的な精神世界に気がつき始めたわけです。それについてかかれた本などが出るようになり「あ、こういうことだったのか。」と気づき始めたわけです。

例えば、アインシュタインは相対性理論を18歳の時にひらめき(右脳によって)、その本質を捉えていたといわれます。しかし、その理論のすべてを言語(左脳)を使って表現するには、41歳までの23年間かかっています。最近ブルース・リー人気が復活していますが、20年前の彼の代表作「燃えよドラゴン」の原題は「エンター・ザ・ドラゴン」です。ドラゴンは中国とか東洋の象徴です。

20年前には東洋が欧米に追いつき、今の時代、まさに東洋思想の中に欧米思想が近づいてきていることを思えば、まさにあの映画は、東洋の時代が来ることを暗示していたのではないかと思います。

ところで、空手道の究極の目的は、肉体と精神の一如感を会得することだとおっしゃっていましたが、やはりまずは肉体の鍛練から入ってそこに到達できる。その意味で、肉体の鍛練は精神云々に先立って欠くべかざる要素ですよね。

そうですね。スポーツもそうですが、空手も肉体論から入ります。それは一番身近にあって、自分が一番わかりやすい部分だからです。しかし、六感の部分、つまり見えない部分の世界まで行くというのはなかなか時間がかかります。そういう意味で武道もスポーツも肉体を入り口にしているわけですが、そこから入ってどこまで、奥行き、深さを持たせられるか。そこが武道における精神論の奥行きの部分だと思うんです。

奥行き、深さでいえば、日本の「道」思想のほうが欧米のスポーツ思想よりも奥が深いのではないでしょうか。

そうですね。「道」の思想は日本文化というかたちの中で醸成された独特のものです。だから、型ひとつとっても、「大極」など道教的な要素があるのではないかと思うんです。

空手には力む空手と弛緩させる空手があっていいと思う。しかし、空手は歴史的に見て、まだ未完成の武道だということもいつかおっしゃっていましたが。

そう思います。その未完成の部分を我々としては追求していかなければならない。その意味で言えば、あくまでも私自身の考えですが空手には力む空手、弛緩させる空手があってもいいのではないかと思っています。10代、20代の体力のある年代の空手というのは緊張の空手だと思うんです。

筋肉を固める。一般論でいえば、拳を握って固めて思いきり突いたら痛いだろう。これは誰でも考えられるレベルです。しかし、武道の術理でいうと、時には緊張させない身体の使い方のほうが優れていると言える訳です。そのほうが強いんだというのが次のレベルじゃないかと思うんです。例えば、三戦の型でいうと力むのが今の三戦の型です。これを弛緩にもっていく型があってもいい。呼吸をもっと穏やかに、しかも長く。筋肉を緩めながら、要するに裏の筋肉を鍛えていくわけです。

裏の筋肉とは具体的にどの部分をいうのですか。

例えば、手というのは、握る動作と開く動作がなければ手ではないわけです。それと同じように空手の動きや技にも、緊張と弛緩があります。そのなかで弛緩、もしくは緊張をしていても感覚的に弛緩していると感じる筋肉が裏の筋肉です。こうした裏の筋肉を鍛える時には力みは不必要です。しかも、表の筋肉は歳とともに衰えますが、裏の筋肉は衰えにくいんです。ですから、裏の筋肉を鍛えることによって、衰えにくい筋肉を使えるようにして、40代、50代60代の空手の技術、理論に持っていけるわけですよね。

裏筋肉を使った弛緩の技のほうがよりレベルが高いといえるのでしょうか。

一概には言えませんが、不必要な緊張は、やはり未熟だということです。例えば、子供が歩き始める時は、足首と膝の使い方が下手なのですぐ転ぶわけです。それが数年経つと走れるようになる。ということは筋肉の使いかたが非情にうまくなるということです。余分な筋肉の緊張が無くなっています。

それを技で言えば、例えばパッとつかまれた時、誰でも一瞬緊張するわけです。それを反射として行っているわけです。相手がつかみ私が緊張したということで、相手は自分がつかんで相手が緊張したというリアクションが手から脳に伝わっていくんです。それで、これくらいでいいかなとか、もうちょっときつくやらないといけないかなと、次のアクションのつながっていくわけです。

ところが、私自身が緊張しないでいると、相手はそういう体験をしたことが無いわけです。そこで筋肉も脳もどういう反応をしていいかわからなくなる。動きにしても、上下動をして動くのが人の自然な動きですが、空手の摺り足的な動作で動かれると、相手は動きを動きとして捉えることが出来ず、近づいたという感覚が希薄になり間合いを置いて隙が出来ます。その隙に技をかけると相手は反応できないわけで、それだけ有効に相手に技を極めることが出来ます。その意味で、弛緩の技の鍛練も重要ですね。

心と体が調和して「四徳」整う気を丹田に取り込んで太陽のように輝く人間となる

人間にも存在する小さな脳、リトルブレインを鍛える。

呼吸法によって、普段コントロールできない自律神経までコントロールできるようになるというお話がありましたが、今回はそのあたりをもう少し詳しく教えてください。

自律神経のコントロールの話の前に、まず,人間の脳のことなんですが、脳は大脳新皮質(新しい脳)と大脳辺縁系(古い脳),さらに脳幹(原始脳)からなっています。それで,大脳新皮質が適応行動などいわゆる人間らしい行動を,大脳辺縁系は本能的な行動をつかさどり、脳幹はさらに生命維持の呼吸、血液の循環などを行います。

この大脳新皮質も膨大な時間の中で進化してきたわけですが、その過程を辿ってみると、脊髄から延髄,脳幹,辺縁系,新皮質という順番で進化してきたといわれています。このように人間は脳を進化させることで生物の頂点に立ったわけです。その一方で,軟体動物,節足動物などの下等動物を見てみると,彼らには大脳はもちろん脳幹すらもありません。

進化を辿れば見える生命を維持するための脳、しかし,それでも本能的な行動や生命維持はちゃんと出来ていますよね。だとすれば,生命体全体をコントロールしている脳的な部分があるはずで、自律神経が脳と同じような働きをしているのではないかといわれています。そういう脳の代替的な働きをする自律神経が下等動物にはある。

つまり、彼らも【リトルブレイン(小さな脳)】とも呼ぶべきものを持っているわけです。このことを考えると、我々人間の自律神経も、人間以前の太古の時代はリトルブレイン的な役割を果たしていたと考えてもおかしくありません。つまり、我々の脳も元々は自律神経の働きの一部であり,そこを起点に脳までの進化過程がある。

つまり,小さな脳である自律神経は大脳までつながっているんです。しかし、人間は大脳を発達させることで、「自我」意識がとても強くなった。そして、自我によって生活、行動を規制するようになり、その結果生命体本来の維持をつかさどる自律神経系の本来の働きとぶつかることにもなったのです。自律神経失調症とかノイローゼといった症状も自律神経系と自我のぶつかり合いといえます。

そういうことであれば、もし自律神経をコントロールする術を身につければ、ストレスから来る色々な症状もなおすことができるということですね。

そうですね。自律神経には呼吸器系、消化器系、循環器系などがあり、交感神経と副交感神経によって生命体の維持活動を行っているわけですが、そのなかで呼吸だけは、自分の意思で止めたり吸ったりできます。前にも述べたかと思いますが、自律神経をコントロールする術の入口に丹田呼吸法があるのです。

呼吸をコントロールすることで太陽神経叢(たいようしんけいそう)を刺激し、その先につながる大脳新皮質まで影響を与えて、バランスのとれた心身を保つことができるわけです。ですから、我々人間は呼吸を息といいます。呼吸はあらゆる生物がガス交換として行いますが、息をしているのは人間だけです。なぜならば、「息」は字を見てもお分かりのように「自らの心」だからです。

太陽神経叢とはどういうものなんでしょうか。

横隔膜の裏に位置して、神経が四方八方に放射しているような部分で、太陽のように放射状に広がっているのでそう呼ばれています。丹田呼吸のような腹圧をかけた呼吸を行うことで横隔膜が上下し、太陽神経叢を刺激するわけです。ある学者はこの太陽神経叢こそリトルブレインではないかと言っていますが私は太陽神経叢も含めた神経節すべてをリトルブレインだと考えています。

その意味で、空手の呼吸法ともいえる「三戦」の型はとても重要だといえます。またある意味で門外不出の秘伝ともいえる部分です。この型を本当に習得すれば、ストレスなどで自律神経系がバランスを失っても即整えることができます。たとえば人間の情緒、喜怒哀楽と結びついた時自律神経に混乱が起きます。

悲しい時は食欲もでないし、怒りの時は運動もしないのに動悸が起こったりします。これらの現象は大脳ではコントロール不可能です。そこで、呼吸法によって太陽神経叢を刺激することで、自律神経の働きを正常化するのです。そして情緒が安定するのです。つまり、リトルブレインからのフィードバックです。この働きを東洋では、二千年以上前から知識として知っていました。これが肚を鍛えると言う概念になり、「肚が据わる」「肚が太い」「肚がある、ない」と言うような肚の文化になったわけです。

心と体が調和して気が溢れる太陽人となる。やはり、空手道は奥深いですね。生涯の修行を伴う「道」ですね。

その通りだと思います。武道の本質は、もとより「護身」、つまり自らの心身を高い次元でコントロールしていこうということですね。そのためのひとつの方法論が呼吸法であり、これは長い年月の「行」があって体得できるものなのです。このことを踏まえ極真の空手層は比較的若い年代層に集中していますが我々指導者としては大会レベルとは別に、もっと違った側面が極真にあるという事をもっともっと社会に知らしめていかなければならないといけないと思っています。

そうすれば壮年の人達などをさらに取り込めますし、そのことによって層も厚くなってくると思います。「健康」「護身」というのは生涯研究していくべきテーマですからね。最後に私の好きな言葉を紹介させてください。

「気息調うて丹田太陽となる。太陽神叢、光燦爛(さんらん)、心身調和して四徳炳(へい)たり。斯くてなる調和の太陽人」

これは藤田霊斎という呼吸法の大家が残した言葉ですが、その意味は、丹田呼吸で太陽神経叢を鍛える事で心と体が調和して、健康・剛勇・叡智・至誠の四徳が整い、太陽のように輝く人間になるということです。この言葉を口にすると、なんとなく心身に力が漲り、元気が出てくるんです。

哲学、体系的な部分でいまだ未完成の空手を完成させていきたい

戦う姿勢の基本は「三戦立ち」にある

今回はまず始めに息吹についてもう少しお話をお聞きしたいのですが。

息吹とは腹圧をかけた状態の呼吸法で丹田呼吸というものです。腹式呼吸は息を吸った時にお腹が膨らみ、吐いたときにへこみます。そして逆腹式呼吸といわれる丹田呼吸では息を吸った時にへこみ、はいた時に膨らむんです。肺呼吸した上で脳圧が上がるのを抑えるため少し空気を漏らしつつ腹圧をかけていく。これが息吹ですね。

それでは息吹というのは息を吐いたときにお腹が膨らんでいなければならないのですか。

そうです。そのような強い腹圧のかけかたなので最初からこの呼吸法を行うことは難しく、危険でもありますので適切な指導を受けないといけませんね。そして一番強い力の出る状態は阿吽(あうん)の呼吸です。

「阿吽(あうん)」とは何なんですか。

阿吽の「阿」というのは息の出ている状態で、吸気に対して呼気と呼ばれるものです。また、「吽」というのは息を止めている状態ですが、気張る状態ともまた違うんです。そういう状態の時、力を強く出せるんです。仁王像がありますよね、あれは二体ありますが口の形も手の形も互いに違います。

しかし、あの一対の阿と吽は呼吸による力の強い状態をそれぞれ表現しています。またあの手の形も力が強く出される動きを表現していることが、筋肉の形から見て分かります。拳を打つ時一番力が入るのは、息を吐いた状態や止めた状態なのです。だから、稽古ではその呼吸法を体系的に行うのです。

息吹は呼吸としては強い呼吸法ですが、肩の力を抜き、腹圧をかけ、尻を締め上げ、三戦(さんちん)立ちという姿勢で呼吸した時、最も体の内外ともに力の強い形になります。

三戦立ちの意味するものとは何ですか。

字の通り三つの戦いを示し、つまり三方向、前と左右の敵に対する立ち方という事です。脇を締め、拳を握り締めその構えをとった時、交感神経が研ぎ澄まされ、非情事態の態勢、戦う姿勢ができ上がります。

戦う姿勢の基本が三戦立ちにあるんですね。

そうですね。それで私はこの姿勢を立っている状態での禅、立禅といっても良いのではないかと思っています。動いているわけではないので動禅ではありませんし、座ってもいないですから座禅でもありませよね。そしてその姿勢での呼吸ができあがったら次ぎは動きの中に取り込んでいかなければなりません。

「三戦」という型では呼吸を吐きながら突く、吐きながら受ける、吐きながら転身する型なのですが、この型は基本がゆっくりなので、それを戦うときには速く使えるようにもっていくのが訓練ですね。

最終的には型の中から創始者の意識に飛んでほしい?お話を聞いていると型には訓練する目的と意義が色々とありますね。

そうですね。例えば「太極(たいきょく)」という型がありまして、型としては基本中の基本です。しかしその太極の意味は東洋哲学的なものからきています。易経に「易ニ太極アリ。是両義ヲ生ズ。両義四象八卦ヲ生ズ」とあります。太極というのは中国思想における宇宙構成の根本原理です。

太極から陰陽二極に分かれ、陰陽から四象に分かれ、またそこから八卦が出たと言います。そのように宇宙の根源が太極であり、そこから全て発生したという考えです。型の基本中の基本が「太極」であり、ここから全ての型が始まり、そして次の段階に「平安(ピンアン)」があると解釈しています。

この「平安」という言葉にも、なにか意味がありそうですね。

そうですね。私の解釈ですが、「太極」の動線は前後左右なんです。それに加えて「平安」では動線に斜めの動きも入り四方八方になります。これは八卦に通じるものを感じます。

つまりこれをやればどんな攻撃に対しても対応できる型という訳なんでしょうか。それでこれらの型はもともと中国拳法からきているのでしょうか。平安(ピンアン)というのも中国読みですよね。

「平安」は日本で作られた型ですが、空手の「から」は元々は唐からきています。唐代に沖縄に渡り「唐手」と呼ばれていたものが、日本人により哲学的な意味が含められ、「空手」というふうに変わっていったのです。そしてさらに空手の道、空手道へと高められました。

源流は中国にあっても、空手は日本で深められたのですね。この事だけではありませんが、日本人は道にするのが得意という感じがしますね。

そうですね。何においても精神性を非常に尊ぶ民族であると思います。

なんとなく型というのは、見よう見真似でやっている人もいそうですが、このような話を聞くと研究していけば面白そうな世界ですね。

その通りだと思います。先程の続きで言えば型というのはいわゆる動禅ですよね。その型を何万回と繰り返し繰り返し行う中で最終的には、その型の創始者の意識まで、飛ぶことができ、見えてくると思っています。

やはり、空手は試合レベルを越えた奥深い世界を持っていますね。

そうですね。現在の支部長は40,50代で、その年代では試合形式での限界もあります。しかし、そこから次がまた修行の段階になると思います。30年以上前に大山空手が始まった当時は、われわれも若かった。その我々も今では中年であり、また別の次元で空手を作り上げていく立場にあります。そういった立場にあるからこそ空手の持つ奥深さを追究しようという姿勢を忘れてはならないと思います。

では、どうすればそのあたりが実感できるのでしょうか。

息吹など呼吸法を実践してみても、そういう部分を知ることができます。呼吸そのものは我々の意思とは関係なく無意識に行われますが、意識することで呼吸をコントロールできるのではないかと思います。つまり、自律神経系までコントロールするのです。その入口が呼吸法にあると考えます。

気を高めるのには、呼吸法が入りやすい方法だということですね。

下等動物には脳がありませんが、自律神経や脊髄が脳の働きの代行をしています。人は自律神経から脊髄、延髄、脳へと情報の伝達が行われ、また脳からの情報の伝達で動いています。その自律神経系の鍛練によって脳につながるその系の鍛練になると思います。その窓口にあたるのが呼吸法です。丹田を鍛える事もそういう事です。

難しいですね。

つまり,呼吸法がその基本なのですが、それにも意味があるという事です。基本と言ってもとても時間を要します。数ヶ月の筋トレで効果が見えたというようなレベルではなく、かなり根気がいる事です。これは「行」だとも言えます。そして内臓系、ホルモンの分泌までコントロールできるように持っていき、治癒力が身につくようになれば、これは護身術です。

護身術、ですか。

はい。まず、自分の体を病魔から守ることが第一の護身だと思っています。武道の言う護身とはそのようなものだと私は考えています。第一に自身を守り、次に外を守る。

なるほど。まず、内なる物を守り、それから外敵に備えるのですね。護身術というと痴漢などに対処する術をイメージしてしまいますが。

空手道の「空」は心の部分、あるいはエネルギー、「手」は技術や型の部分、「道」はそれらを根源的な働きとして結ぶところを意味していると思います。だから空手道とは、我々が我々が修行の中でやらなければならない事が、全てその言葉の中に表現されているんじゃないかと思いますね。

心と体は内と外の関係にありますが、例えば、原始構造と宇宙の構造はそっくりなように、マクロ的なものとミクロ的なものはイコールでもありますよね。心と体、つまり空と手が太極(陰陽の働き)にあって結びつく道であるのが空手道なんですね。

以前、今後は振り子の揺り戻し現象で「物質文明の行き詰まり」を解決するテーマの一つに東洋哲学があると話されましたが、ある部分で空手はそう言う問題を解決する要素を持った武道だという事でもありますか。

そうですね。また、そうしないといけないと思います。しかし、空手の哲学、体系というのはまだ完成していないと思うんです。だからそれを完成させなければならない。そう言う時期にあると思います。できるかできないかじゃなくて、していかなければならないんです。

呼吸法を練習すればエネルギーをうまく取り込める?完成されたものを辿るのではなく、これから完成させていくというのは、おもしろいですね。

うちの組織にとって、重要なテーマであると思っています。呼吸の話に戻りますが、江戸時代の臨済宗の中興の祖で白隠という人がいました。その白隠が丹田呼吸に触れ「気海丹田腰脚足心本来之面目」という言葉を述べています。足心にも意識して鍛え上げることが大事だと、丹田だけでなく腰から足の裏までの重要性を述べていますね。

以前お話しました上半身より下半身が大事、つまり「上虚下実」で、今風に言えば頭ではなく胆という事になると思います。また、老荘思想では小人は口で呼吸をし、悟りを開いた人は踵から呼吸をする、とあります。勿論、これは踵から吸い上げるように長い呼吸をするという事でしょうけど。

息吹で大きく息を吐いて、肺に空気がなくなると、その分、空気は入り込んできます。これが本当の呼吸ですよね。吸ってから吐く(吸呼)のではなくて、吐いて吸う。吸ってから吐くほうが呼吸としては弱いんですよ。深呼吸では普段の呼吸の肺活量の三倍ほどにもなるといいます。呼吸はエネルギーを取り込む手段でもありますし、呼吸法を練習すればエネルギーをうまく使えることと思います。型や呼吸法なら壮年や女性も取り組みやすいと思います。

空手のまた違った面が学べますね。

そういった事が空手の奥深さを知るきっかけになればいいですね。

空手を世界の共通言語として大きなエネルギーの「場」を作れば社会の何かを変えられると思う

同じ方向のエネルギーの結集が共鳴現象を起こす

国際交流についてですが、今後は試合を通しての交流だけでなく、空手のもつ精神世界を軸にした交流にまで高めていく必要があるのではないですか。

ヨーロッパにはヨーロッパの価値観があるし、アジアにはアジアの価値観があります。世界は全部違った価値観で生きています。それはそれでいい事で、大事なことはちゃんと自分のアイデンティティを持っていて、かつグローバルな視野を持つということだと思うんです。

そういう意味での共通言語として我々は空手を使っているわけですよね。ところがそれを使っていると、言葉の違いが出てきたりします。それで、型の統一とか基本の見直しをしたわけですが、空手が真の意味で共通言語として機能すれば、そこには膨大なエネルギーの場ができて意識の共鳴現象が起きるのかなと思いますね。

同じ物に向かって同じエネルギーの波動を出していった時、エネルギーの場がどこかでいっしょになる時期が来る。そういう意味で日本の我々がリーダーシップをとることが大事になってくると思います。日本の空手の奥深いところを本当に求めているのは、あるいは外国ではないかという気もするんですよ。

極真の今までの流れというと、試合偏重格闘技レベルから脱していない部分もあるように思います。それは多分に時代の偏差値的な価値観によって作られた考え方によるものでしょう。我々も含めて偏差値教育を受けているわけで、だから、勝てば偉い、負ければ駄目だという発想が生まれてくる。それは我々にもあり得る部分だと思います。そこから脱却し、別の価値観を打ち立てるには、ものすごいエネルギーが要るわけです。

一人のレベルのエネルギーではステージ(場)にならないんです。何千人とか何万人とかのエネルギーになったときに、ステージが一段あがると思うんです。そうなって初めて、他の人がそれに気がつき始め、流れに参加し始めるわけで、そのとき本当の意味で我々に社会性が出てくると思うんです。

あそこでやっている空手というのは、単なる殴りっこではないなと。そこには教育的な側面がある、あるいは人作りがある。我々が空手を共通言語に、そこまでのエネルギーを世界的な規模で集めることができた時、社会の何かを変えることができるのではないでしょうか。

空手を通して世界に通用する人材を育成したい

ワールドカップという新しい発想が生まれましたが、こうした形で国際的な文化交流が必要だと思われたのはなぜですか。

私がヨーロッパに行ってみて感じたことは、EUという概念でした。現在、EUという形でヨーロッパ経済圏が確立されつつあり、すでに経済的には国という意識がヨーロッパにはなくなってきています。ドイツ人やイギリス人ではなく「ヨーロッパ人」、あるいは「ヨーロッパ国」と言ったらいいでしょうか。そんな感覚が出てきていますね。彼らと会ってみると英語は勿論、スペイン語、フランス語、ドイツ語などだいたい一人五カ国語くらいはしゃべれます。それぞれの国にいながら「ヨーロッパ国」に住んでいる。そういう感覚になってきています。

ヨーロッパの場合はすでに経済的なレベルで国境を越えている。願わくば、それが経済面にとどまるのではなく、文化面でも国境を越えた交流ができるようになればもっと素晴らしいと思いますね。しかし日本の場合はまだそこまでにはなっていません。日本人はあくまでも日本人だという感覚が強いように思いますね。

これからは日本も、日本人というアイデンティティをしっかり確保したうえで、世界人というものになっていかなくてはいけません。その意味でも、どこそこの国を知っている、あるいは行った、話をしたことがある、そんな世界体験を持つ青少年を育成することが日本の将来にもつながるわけで、我々もその一端を担っていかなければと思っていますね。

そうなると、我々の目指す青少年の育成と国際交流というものが一体となった形で結びついてきますね。

青少年育成ということで言えば、今は教育の問題が叫ばれています。これは、日本だけでなく世界で大きなテーマとなっています。特に欧米の場合は、物質文明を追い求めてきた二十世紀的なものの振り子が振り切れてしまった状態ですね。日本の場合も今まさに振り切れようとしている。

西欧文明の行き詰まりの中で、教育もまた行き詰まりを見せているわけです。そうであるならば、これからは、教育の問題を学校や教育者だけに任せておけないんです。我々も空手を指導していくという立場で教育という部分のどこかを補填していかなくてはならない。そういう自覚が我々にも必要だと思いますね。

今の教育を見てみると、左脳教育は非常に優れています。しかし、その一方で右脳教育は全て無くなってしまっています。二十一世紀は、この無くしてしまった右脳教育の部分を復活させる。そういう時代になるんじゃないかと思います。

二十一世紀は右脳教育が必要になってる

具体的にいうと、右脳は何を司っている所なんでしょうか。

一言でいえば感性の部分ですね。1+1が2というのは左脳です。論理的な思考です。一方、川のせせらぎの音を聴いて気持ちが落ち着くとか、風鈴の音を聴いて夏を感じる。あるいは、こおろぎの鳴き声を聴いて秋を感じる。そういう部分を司っているのが右脳なんです。

ちなみに、欧米人は風鈴の音などは雑音と感じるらしいですよ。全体的な流れでは、二十世紀はモノの時代であったといえると思います。しかし、二十一世紀は、見えない部分、感性あるいは精神性の豊さに価値がでてくる時代です。つまり右脳の復活ですね。日本でもバブルがはじけた時「清貧の思想」というような右脳的なものに振り戻そうとする動きが出てきましたが、これもこれからの時代の傾向を象徴しているように思いますね。

空手は肉体レベルから入っていって精神レベルの世界にまで昇華させていく修行法です。その意味では、極めて右脳教育的な要素を持っています。ある部分、二十一世紀が必要とする右脳教育の一端を担っていけるものだと言えるんじゃないでしょうか。そういう形で青少年教育に関わりながら、世界の若者たちが精神性の部分で深く文化交流のできる場を提供していく。そこに大きな意義があるものと思っています。

人間は生命危機にさらされた時に一番強くなれる。それを教える空手こそ極真空手

フルコンタクトでしか見えてこないものがある。

大山総裁は、ずっとフルコンタクトにこだわってきました。ある部分そこにこそ極真の極真たる所以があると思いますが、我々がフルコンタクトにこだわる理由というのはどこにあるとお考えですか。

そうですね。私は空手を指導するにあったては、武道教育という概念はいつも持ってきました。昔の侍でいえば、武士は戦いに臨む時、死ぬか生きるかまで追い詰められたわけです。そこから「人間は死という生命的な危機感にさらされた時に一番強くなれる」という思想が生まれ、後にそれが禅の精神と結びついた時に生き様としての武士道ができました。

私も、人間というのは死という生命的な危機感を持った時、逆に一番強くなれるという考え方には賛成です。例えば、盆栽というのは1年に一回剪定(せんてい)します。根、葉、そして枝を切りつめることで、あの小さな鉢の中で十年、二十年の生命が保てるわけです。あれを普通に植え替えていたら、途中で枯れてしまいます。つまり、生き物というのは、ある程度生命危機が与えられ、それを乗り越えた時に本来持っている力が出てくる。そんな気がしてなりません。

現在の平和な世の中でも、そういった体験がフルコンタクトならできる。肋(あばら)を折ったり、歯を欠いたり、血を流したりして、ある種の生命危機を感じさせる武道ですからね。人間は生命危機を乗り越えた時に一番強くなれると言いましたが、私自身もその強さを持っていたいと思っています。またフルコンタクトという生命危機の体験の中でしか見えてこないもの、昔の武士道に通じる精神性といったものを極真空手を通して教えていくことができればと思っています。

集団よりも個の空手観が今問われている。組織の持つ空手観とか哲学などが問われてくるんでしょうか。

それもありますが、空手の場合最後は「個」に行きつくでしょうね。人間は本来弱さとかずるさとかを持ち合わせていますが、最終的にそういったものを空手の修行を通じてどこまでコントロールできるようになれるか。それは個の問題なんです。それがあるレベルで出来るようになれば、その人は空手を通して一つの結果を出したことになる。それを生徒達は見ているんです。あるいは、社会は見ている。その意味で、今の極真会は、集団というより個のレベルで問われる時代を迎えているのではないかと思います。

裏を返せば、そういった「個」がどれだけ結集した集団であるかが組織としての強さを決める要因になるといえますね。

その通りです。最近、我々の大会で三十代半ばぐらいで試合に出てくる支部長や選手が多くなりましたよね。これは非常に素晴らしいことだと思います。またその人達の生き方を皆が注目していると思います。私自身も、やはり見ていて好感が持てるし、そういう人達の言動を見ても共鳴できる部分がたくさんあリます。彼らは人生の中に空手を持ちこみ、活かしていますよね。

だから、勝ち負けを超えた部分で彼らの生き様に共感を覚えるんだと思います。個のレベルの問題とは、つまりどこまで自分の人生に空手を持ち込んでいるのかということ。真剣に人生と空手を模索する個が寄り集う組織であれば、それは精神性や生き様の部分で結びついた素晴らしい組織だといえます。我々の組織もそうありたいですね。

東洋の持つ精神性に西洋が目を向け始めた。そんな時代が今だと思う

精神の部分を切り捨ててしまった西洋文明 今回は、物質文明を打開する鍵は東洋思想にあるということで、そのあたりから話をお聞きしたいのですが。

まず、精神的なものがあって初めて肉体的なものがついてくるというのが東洋文化の根底にあるんじゃないでしょうか。その反対に、精神の部分を切り捨てていって、全て部分に分けてしまい、それを分析して作ったものが西洋文化だと言えるのではないでしょうか。

例えば医学にしても哲学にしてもそうだと思います。しかし、今日においては、そういう考え方が成り立たないと言うことがわかってきたわけです。そういう意味で、今は西洋が東洋に近づいてきています。逆に言えば、東洋が西洋に対してそういう仕掛をし始めている時期だと思いますね。

判断力とか胆力と言う形で「気』は具現化する。では、何を持って世界から尊敬される日本になるか、組織になるか。これからその部分を我々も世界から問われることになりますね。

精神的なものは見えないですから、その部分を世界に示していくことはなかなか難しいことだと思います。他だ、それは発揚の仕方で示していけるのではないでしょうか。先程いった「気」と言うのはエネルギーの総称なんですが、判断力とか胆力とか、そういう形でエネルギーが発揚した時、はじめて「気」というものが具現化していくわけです。気が衰えると言うのは誰にでもあることです。

しかし、「気」と言うのは見えないだけに、具体的にはわかりづらいんですね。これはいつも私の道場の指導員などに言うんですけど、じゃあ、食事に行く時に、うどん屋の前に立つ前から今日はざるそばだとか力うどんだとか決めている時があるだろうって。その反対に、椅子に座り、テーブルについてメニューを見ても、まだ決めかねているときもあるだろう。これは判断力という能力が衰えているんだとね。つまり、そんな時は、「気」のエネルギー的なレベルが衰えているということですね。

現象にとらわれないことが大事。今の人達は現象にとらわれやすと思うのですが。

そうですね。例えば、雨が降れば、それで慌てる。風が吹けばそれで慌てる。そうではなくて、方向性が間違ってさえいなければ、雨が降れば傘をさせばいいわけだし、風が吹けば物陰に隠れるとか衝立を立てればいいわけです。そんな知恵を働かせれば済むのに、色々起る現象や状況そのものに震えたり、怯えたりしてしまいます。

ところが、例え「最悪の状態」というものに陥ったとしても「最悪の状態」そのものにエネルギーは無いわけです。そこには、「最悪の状態」という現象があるだけなんですよ。そんな状況を良くするのも悪くするのも、その時に自分がどう判断し、行動するかにかかっている。まさしく、気力といった精神的な部分は、そこで問われる事になると思うんですよ。

逆に言えば、現象にとらわれやすい人はその現象が希薄になるととらわれなくなる人ですね。そういう人は再び困難な状況に遭遇すると、精神的なエネルギーが萎えてまた右往左往してしまう。我々はよく「覚悟」という言葉を口にしますが、本当の覚悟というのは、どんな状況に陥っても正しいと信ずるところを行く。そんなレベルの覚悟でなくてはならないと思います。

武道精神を一言で言えば「肚づもり」。そういった精神レベルこそ武道精神の真髄であり、我々が世界に示すべきソフトだと思うんですが、こうした部分を一言でいうとどんな言葉で表せますか。

「肚づもり」とか「生き方の美学」ですかね。現在、欧米の極真は体力・技術レベルで追いついてきました。しかし、これからは、それとは違った次元で日本がリードすべき部分として「見えない世界」とか「東洋思想」という言葉も使ったんですけどね。いずれにしても、そういった部分を世界に示していけるかどうか。それが今後の我々の大きなテーマになると思います。

精神文化という観点から言えば、日本人らしい日本人は概して少なくなってきているかなという気がして仕方ないんですけど。

そうですね。しかし、これからの時代を思えば、我々は日本人を忘れない世界人にならないといけないんじゃないかと思いますよ。そのうえで、かつ世界の文化と融合するというのが大事になってくるんじゃないでしょうか。シュールレアリスムの詩人アンドレ・ブルトンの「通底器」という題の詩がありますが、これは理科の実験で使う連通官のことで、底がつながっていると必ず同じ高さになる。我々が目指しているのは、それと同じだと思うんですよね。

つまり、我々の立場で言えば、つながっている部分は東洋の武道精神を具現化した空手というものですよね。それを世界に示していった時、同じ感性、同じ精神性といったものがフッと出てきた時に、世界中の文化圏を越えて仲間意識のようなものができてくる。今までそういう形で理解しあえるものって殆どなかったんじゃないでしょうか。そんなところにも極真の可能性の大きさがあるといえますね。 

今年は、今一度、武道としての空手について考え直したい

今一度、武道としての空手について考え直してみたい

武道としての空手という事について考え直していきたいと思っています。組織としても、より求心力のあるものを作りたいですね。いろんな意味で空手を体系化していく作業も必要だと思っています。

例えば型にしても段階的に教えていく。太極から始まって平安にいく、平安からまた次の型というように進んでいくことが体系だと思うんですよね。基本とか移動とか型とか、その解釈とか、そういったものを体系化していくことによって段階的に教えていき、最終的に理論化まで持っていくという事です。そして、その理論化ができたときに、はじめて空手本来の円の動きというものや、剛柔の空手ができてくるんです。

私は本来、剛柔というのは相殺ではなくて相生だと考えているんですが、剛の部分というのはど突き合いですが、最終的にそのど突き合いに耐えられる体力を持っているにもかかわらず、一発も相手に当てさせないような動きをする。これはやっぱり柔の動きだろうし円の動きだろうと思います。そういうものを理論化していく。あるいは実際に組手として見せられるような形にしていくことですね。

極真空手をより深く耕していきたいという事ですか。

そうですね。そういうふうに体系化、理論化していくことは、他流派との差別化につながってくることにもなると思います。それは他流派の否定ではなく、極真の本質をわかってもらうための差別化、区別化です。

空手の中で極真と他流派を比べた時に、極真のスタイル、スタンスというのはこうだということをはっきりさせ、今まで曖昧だった他流派との境界線を明瞭なものに作り上げていくことですね。ただ、それは一朝一夕に出来るものではありませんので、時間をかけ、来世紀に入ってからでもメッセージすることが出来るようになればと思います。

戦後教育の歪みが昨今の中学生などによる事件の背景にあるような気がします。

人間性まで偏差値でははかれません

今非常に話題になっていることと言えば、どうしても教育の部分に行きつく部分があると思うんです。一部のことでしょうが、今中学生がおかしくなってきている。最近の殺傷事件の多発が、何かを象徴しているのではないかと思うんですが。

私の道場では、年に何回か道場生で学校の先生をやっている方々に集まってもらってミーティングをやっていますが、「うちの学校では殺人以外は全部あります」と言う先生もいるわけです。ドラッグだとか校内暴力とか恐喝とか、そういうことは日常茶飯事だと。週に一回は警察に生徒を引き取りにいくという、そういう状態らしいんですね。

なぜそうなってしまったのでしょう。

これは単純な要素ではないと思いますが、一つには、戦後教育それ自体の問題ではないかという気がします。戦後は経済的なことを最優先していきましたよね。効率とか経済性とか、そういうものを優先させるということが教育の中でもやっていき、偏差値で優れた人間に「いい子」とか「できる子」という評価をしてきたわけです。

その結果、道徳的な教育の影が薄くなったし、美術とか音楽といった情操的なカリキュラムが学校の教育から削除されていきました。そういう教育的な歪みがここに来て出始めたんじゃないかと。だから偏差値が低くて学校の評価が得られない人間は駄目な子という風になってきたわけです。その子達は別な自己主張があっても、なかなか学校や親の認めてもらえない。

社会からも否定されちゃうわけですから、やっぱりどこかでドロップアウトせざるを得ないことになると思うんですよね。でも偏差値というのはあくまでもその人間の持つ能力の一部の評価であって、人間性の評価ではないと思うんです。それを取り違えたところが戦後教育の歪みとして挙げられるんじゃないでしょうか。

他にも要因がありますか。

子供を教える教育者の能力不足、これも一因に挙げられると思います。最近の新聞で、東京都の教育委員会が都内の学校の教員の中で16人ぐらいを指導力不足だと認定したという記事があったんですが、東京都で16人ですから単純に考えて全国で考えると80名ぐらいにはなるんじゃないかと思います。これは公立ですから、私立の先生の数まで入れればもっとすごい人数になると思うんですよ。

ですから子供だけではなくて、教える側にも問題があるという部分も忘れちゃいけないと思います。先生自身が授業を含めた集団活動が出来ないという現象もあるわけです。さらには最近の生活環境がうんと変化していることが挙げられるのではないかと思いますね。昔だったらおじいさんおばあさんに知恵袋のようなものがあったのに、現在は核家族化してしまっていて、しかも両親は共働きで社会に出ている。

また、それにも関連していますが、食べ物の変化もあります。核家族化共働きのため、家族揃って家で調理した料理を食べる機会が少ない子供は、インスタント食品に偏った食事をするケースが多いわけで、普段から食べている食べ物、食文化の変化というものも関係しているのではないかと思います。

私が思うに食文化の変化は我々が考えている以上に今日の社会現象と密接に関わっているのではないかという気がしてなりません。次回は食文化の変化がもたらす影響について、もう少し詳しく述べてみたいと思います。

東洋の知恵で食文化を見直す時代を迎えている。

食文化の変化は民族の存続までも脅かす

今回は、食文化の変化がもたらす影響についてお話を伺いたいと思います

東洋には「身土不二(しんどふじ)」という言葉があります。つまり、身体と土地は切っても切れない関係にあるという事ですね。例えば昔は「四里四方で出来た物を食べなさい」と言われていました。私の住んでいるところで言えば平塚を中心にして四里(16km)四方内で採れたものを食べていけば、体に適しているという事ですね。

タヒチと言う国が南太平洋にありますが、200年前には2000万人居た原住民が今では一万人になってしまったという統計があるようです。それは何故かというと、欧米に占領され、欧米の食の文化を採り入れた事によって「身土不二」でなくなってしまったからです。タヒチで採れていたものを食べていた文化が、欧米の食の文化が入ってきたことによって民族が滅びる一歩手前まできている。それほど食生活の与える影響は非常に大きなものがあるといえますね。

砂糖の大量摂取による低血糖が問題になっている。昨今の「キレル」中学生も食生活と密接に関係しているのではないかということですね。

その可能性はありますね。この事に関連して砂糖の話をしてみたいと思いますが、その前に、ケシを例にとりますと、ケシの花からまず乳液状のものを採って最初に精製したものが阿片(アヘン)なんです。それをもっと精製したものがモルヒネで、さらに精製して最後に出来たものがヘロインなんですね。

それで、砂糖の場合もケシと同じ過程なんですよ。サトウキビからまず糖蜜をとって、赤砂糖になって、最後に精製して出来たのが白砂糖なんです。ケシでいえば精製の度合いが最も高くて効き目が強いのがヘロインですが、効き目が最も強いということは毒性が高いということを意味しています。それと同じく、白砂糖というのは、これ以上は精製できないものですから、やっぱりそれにも毒性があるんじゃないかという事ですね。日本で言えば昔は砂糖なんか貴重品で食べられなかった。

ですから穀類とかでんぷん質のものを食べてきたわけですけども、そういうものは体に入ったらゆっくり分解するものなんですね。ところが砂糖は、すぐに体の中で分解してしまう。そうすると血糖値が急激に上がっちゃうわけです。ゆっくり分解していく分には問題ないんですけども、急激に血糖値が上がれば、それを抑えようとして今度はすい臓からインシュリンが出ます。このインシュリンがすい臓から出ると低血糖症が起こるんですね。要するに血糖値を下げ過ぎてしまうわけなんですよ。

それで終わりならいいんですが、体がそれに過剰反応することによって、一旦下がった血糖値をまた上げようとします。その時、今度は肝臓からグリコーゲンが出てそのグリコーゲンが出る時に一緒に分泌されるホルモンがアドレナリンです。このアドレナリンというのはご承知の通り非常に攻撃的なものなわけですね。つまり、砂糖を大量に摂取するということは、結局、毎日毎日攻撃ホルモンを作っているようなものだといえるんですね。

低血糖症は暴力行為にも結びついてしまう。いつ頃から日本人は砂糖を大量に摂取する食生活になってしまったんでしょうか。

昭和五十年代ぐらいになって、日本の食生活が大きく変わってきたといえますね。炭酸飲料をはじめ、砂糖を過剰に摂取する文化が昭和五十年代から始まりました。ちょうどそのころの世代といえば「団塊の世代」にあたりますが、その世代のお子さんが今はだいたい中学から高校生ぐらい、早い人で20才ぐらいになっています。

そうするとそういう食生活になれたお父さんお母さんは別に違和感なく自分の子供達にも大量に砂糖を与え続けることになります。増してや核家族化することで、インスタント食品やファーストフードといった食べ物も何の抵抗もなく食べているわけです。しかし、それによって低血糖症を起こすようになってしまった。

この低血糖症がアメリカでも非常に問題になってきて、交通事故の八割ぐらいがこうした低血糖症から起こるというデータもあるくらいなんです。さらに悪いことには、低血糖症は交通事故レベルにとどまらずそれがエスカレートした時に暴力行為に結びついているという事です。我々は、昭和五十年代頃からずっと欧米型の食生活をしてきているわけですから、当然アメリカで起こった食が原因と考えられる低血糖症は日本でも必ず起こると予想されますし、中学生の起こす事件などを見ると、実際に起こりつつあるといえますね。

それと共に、添加物の問題もあります。現在、大体5万種類ぐらいの食品に350種類ぐらいの添加物がはいっているといわれていますが、1日に60種類ぐらいの添加物を我々は食べていて、年間で3・5kgぐらい、10年間で35kgぐらいの摂取量になるそうです。だから中学生ぐらいになると15年間で45kgぐらいの添加物が体に入ってきた計算になります。

お酒はアルコールが脳にまわってきた時に酔ったという感覚になるわけですが、ある添加物が脳にまで入ってその副作用が出た時には、もしかしたら人間性が変わっちゃうかもしれない。そういう恐さがありますね。こうしたことが食文化の欧米化による弊害ではないかと思いますね。しかし、今の日本で「そういうものを食べるな。」というのは難しいことです。難しいなとは思うけれども、そういうものを食べ続けてきたことによって低血糖症というものが起っているというのが現実としてあるんですね。

では、低血糖症を引き起こす食文化を今一度見直さなければならないという事ですか。

そういうことだと思います。アメリカではマク・ギャバンという議員がマクのMをとってM委員会っていうのを作ってアメリカの食文化を大体150年間さかのぼって検討したことがあるんですが、「100年前の食文化に戻れ」ということを最後の結論として出しているんです。この調査の背景には、アメリカはこの10年間で医療費が四倍になったということがあります。

日本でも医療費が90年代の初期に20兆円だったものが2000年には40兆円を超すと言われています。さらにすごい統計があって、2010年には90兆円近くなるらしいんですね。それで、結局マク・ギャバンが調査をしてみて一番言いたかったことは、病気の原因は食文化に起因するものだと。添加物とか砂糖の大量摂取という問題を抱えたアメリカ人の食文化をこのまま続けていけば病気をどんどん作り出していくということだったんですね。

武道的な発想、日本人の持つ美学から昨今の青少年問題に取り組んでいきたい。

まずは、躾の三原則から教えていく

前回のお話では、食文化の変化も昨今の青少年問題と関わりがあるのではないかということでした。いずれにしても、青少年問題は、日本だけでなく世界的にも大きな課題となっています。そのなかで、極真空手は何が出来るか。今回はそのことについてお聞きしたいと思います。

我々も組織の方向性の一つとして「青少年の育成」を掲げているわけで、昨今の中学生の暴力事件などにも強い関心を抱いています。では、身近なところで我々にできることは何か。その一つが日常的な稽古の中で躾の三原則を教えていくという事ですね。躾の三原則とは、「挨拶」「返事」「後片付け」です。私の道場でも、これだけはうちの少年部に教えようということで指導員達にも話をしています。

それと、空手の教室に来た時くらいは思いっきり大きな声を出して、思いっきり組手をして、汗を流してという子供らしいことをやらせようと。学校や家庭で偏差値の善し悪しで判断されることで、子供だって欲求不満になっていると思うんですよ。鬱積したものがたまってると思うんですね。でも、偏差値の低い子は駄目な子じゃありません。

その子の人間性を見れば、いっぱいいいところを持っている子もいるんですね。それをどこかで引き出してやるのが本当の教育だと思うんですけども、今の学校の教育の中じゃそれは難しい。これは私の道場に来ている学校の先生方でも口にすることですね。では、空手でどこまで出来るのかと問われれば、明確な答えはないわけですが、しかし、そのどこか一部分でも担おう、それを模索しようじゃないかという気持ちはありますね。そのために、学校の先生達と何回か集まってそういう話し合いの機会も作りつつあるんですけどね。

少年部の入門者は非常に増えている。子供を持つ父兄も、昨今の少年による傷害事件で「もしかして、自分の子供がキレル子になったらどうしよう」という不安を抱いていると思うんですが、そういった不安から空手の持つ精神性に期待して入門させるというケースは増えていますか。

どんな動機で入門してきたのかははっきりわかりませんが、現在、少年部の入門者は非常に増えているのは事実ですね。子供達が増えて、道場を増やさないといけないような状況になったり、前から少年部があった道場でも、人数が多すぎて2部に分けないと教えきれないとか、そういう状況ですね。

道場に子供を預ける親御さんと面談する機会も多いかと思うんですが、どういったことを期待されているんでしょうか。

まずは礼儀ですね。武道を教えるところに入れば礼儀も正しくなるだろうと。やっぱりそういう躾の部分への期待は大きいですね。それともう一つは、学校でいじめられる側の子の親御さんが、子供に精神的に強くなって欲しいという期待を持って入門させる場合も多いですね。後はお兄さんやお姉さんが入っていて、楽しいからというので兄弟で入会されたり、ご父兄も一緒に親子でやられたりと。あるいは一つの幼稚園や小学校で友達を呼んでという形で連鎖的に入会されるケースも多いですね。

今の教育システムは時間はかかるが、確実に変わっていく。いずれにしても、今の学校教育だけではどうにもならない状況になってきている。それが少年部の増加につながっているといえそうですね。

そうですね。結局今の教育ではいろんな歪みが出てきている。そのことはもうわかっているんですけども、個の自体を変えていくためには相当な時間がかかると思うんですね。教育委員会やいろんな立場の方が動いていらっしゃると思うんですが、現実に個のシステムが変わるには相当かかります。

しかし、あと何年かすれば、大学も「うちに入ってください」っていう形になると思うんですよ。今はもう子供が少ないですから、大学自体が今度は選ばれる側になってしまう。そうすると必要以上の塾通いとかいうのはなくなってくる可能性もありますよね。だからアメリカ的な形で、入試はないけども、卒業試験や学年試験で振り落としますよという事にならないとも限りません。

一生懸命勉強していない人間は落とされるんだと、でも入るための試験はないんだというように、教育のシステムが変わる可能性はありますよね。ただ、残念ながら今すぐというわけにはいきませんね。今は韓国あたりが日本の入試や塾に匹敵する以上に受験戦争が盛んなようです。

ですから、多分韓国でも、近い将来、今日本に起こっているようないじめとか、低年齢層の殺人とか傷害事件というのが起こり始めると思うんですよね。そうなると、アメリカから日本、それからアジアへと、欧米の文化が広がることによってその文化の持つ負の部分、歪みみたいなものがもっと出てくるような気がしますね。

武道という文化論からアプローチしていきたい。日本は明治から、他のアジア諸国は戦後から西洋文明の波に洗われたわけですが、果たしてそれが良かったのか。食文化、教育の問題を含めてそういうことが今の日本で問われているといえますね。

そう思うんですよね。だから逆にいうと、もう一度日本人とか東洋文化といった観点から、先人の智恵や文化を見直すことによって、21世紀の我々の生き方、あるいは子供に対しての指針というものが出てくるような気がしてなりませんね。

孔子の「温故知新」という言葉をもう一度噛み締める時代といえるかもしれないですね。

大会のご協力をお願いするといったことで企業を訪ねる機会も多いんですが、やはり企業のトップの方やあるいは団塊の世代の方は、みんな一様に今の日本という国に対して危機感を持っています。しかし、その危機感をどういう形でいい方向へ矯正していくかというところで、みんな悩んでいます。そういう部分を我々としては武道という文化論からアプローチしているわけです。

そのなかで、日本の武道的な発想の中から出てくる精神性とか、さっきいった日本人の美学の一つの表れである躾とか、そういったところを大事にしていくことによって、それがここの人間性になり、その人間性が家庭に還元され、家庭から社会に、社会から国家になっていくということだと思います。やはり、個人というものが全体を作っている基礎だと思いますから、我々として意識しなければいけないことは、入門してくる一人一人に対して武道的な発想で何をしてあげられるかということだと思います。

まず「隗(かい)より始めよ」のことわざの通り、個人から始めて、それが何%かになればまた場のエネルギーが生まれて、社会に大きな影響力を持つということですね。

そうですね。今は空手の持つ武道性、精神性を通してそこまでやらなければいけない時代であると思っています。